バイオグラフィー
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生年月日
1882年 10月 6日
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出身地
Cherkas'ka Oblast', ウクライナ
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没年
1937年 3月 28日 (享年 54 歳)
カロル・マチエイ・シマノフスキ(Karol Maciej Szymanowski, 1882年10月6日 - 1937年3月29日)は、ポーランドの作曲家。激動する時代に合わすかのようにその作風を何度か変えながら4つの交響曲、2つのヴァイオリン協奏曲、2つの弦楽四重奏曲、2つのオペラ、ピアノ曲や歌曲を残した。
創作初期には、ショパン、ワーグナー、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガーらの影響が明らかな後期ロマン派の作風の作品を創作した。
1914年、シマノフスキはローマ、シチリア、アルジェ、チュニスあるいはパリやロンドンを旅した。またその途中ロンドンでストラヴィンスキーと会っている。第一次世界大戦の勃発によりティモシュフカに帰ったが、そこでも古代ギリシアや初期のキリスト教、イスラムやオリエントの勉強に没頭した。その成果が1916年に完成した交響曲第3番「夜の歌」である。この作品にはドビュッシーを初めとする印象主義音楽と13世紀のペルシア人神秘主義詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーのテキストが見事にブレンドされている。こうした作風がシマノフスキの創作第二期の特徴であり、この交響曲は第二期の代表作である。
1917年の秋、ボリシェヴィキの一団がシマノフスキ家を急襲し、美術品は略奪され、カロルのピアノはおもしろ半分に池に投げ込まれてしまった。この事件はシマノフスキ一家を経済的、精神的に叩きのめした。カロルはショックのあまり音楽から遠ざかり、小説『エフェボス』を創作している(1939年の火事で焼失し現存しない)。
1918年にポーランドが独立を遂げると、その翌年にシマノフスキはカイロの音楽院からの招聘を断り、一家でワルシャワに移住した。この頃から彼は祖国の音楽に興味を持ち始めていたのだが、それを決定づけたのは、1921年パリでストラヴィンスキーと再会した時に彼がピアノで演奏した『結婚』に受けた衝撃であった。以降、シマノフスキはポーランド、特に南部のタトラ山地の民俗音楽に傾倒して行く。ここから彼の創作期は第三期に入る。彼は1922年以降ザコパネに別荘を借り、この地をたびたび訪れている。
1927年にシマノフスキはワルシャワ音楽院(1930年にワルシャワ音楽アカデミーとなる)の院長となった。彼は若い才能のある音楽家を育てるためにポーランドの音楽教育を根底から見直し、改革を行おうとするが守旧派と対立し、フラストレーションにさいなまれながら5年間を過ごした後、1932年辞任に追い込まれた。辞任後は収入を得るためにコンサート活動を行なった。1932年の交響曲第4番は自身を独奏者にすることを想定したピアノ独奏を有する交響曲となっている。しかし、コンサート・ピアニストとしては技術不足で、コンサートの回数は年々減ってゆき、それにつれ経済状態は困窮の度を増していった。それに追い打ちをかけるように肺結核が悪化し、転地療養のためにダボス、グラース、カンヌと各地を転々とし、最期は1937年3月29日にローザンヌで息を引き取った。
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