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バイオグラフィー

  • 生年月日

    1940年 12月 21日

  • 出身地

    Baltimore, Maryland, アメリカ合衆国

  • 没年

    1993年 12月 4日 (享年 52 歳)

フランク・ヴィンセント・ザッパ
(Frank Vincent Zappa, 1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、
アメリカ合衆国の男性音楽家(ロック、ジャズ・フュージョン、現代音楽)。

ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)に認められた現代音楽作家でありつつ、
ロックギタリストとしても評価が高く、エイドリアン・ブリュー(Adrian Belew)、
テリー・ボジオ(Terry Bozzio)、ローウェル・ジョージ(Lowell George)、
ジョージ・デューク(George Duke)、スティーヴ・ヴァイ(Steve Vai)他を輩出したバンドのリーダーでもある。

多作で知られ、一生涯で60枚以上のオリジナルアルバムを発表した。
息子ドゥイージル・ザッパ(Dweezil Zappa)もロック・ギタリストである。
ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第45位。

・生い立ちと初期の経歴
1940年12月21日、フランク・ヴィンセント・ザッパはメリーランド州ボルティモアで生まれた。
彼の祖先はシチリア島、イタリア、ギリシャ、アラブ、フランス、アイルランド、
そしてドイツと様々な土地の混合であった。

1951年1月に一家はフランクの喘息療養のため
カリフォルニア州のサンフランシスコから100マイル南のモンタレーに転居した。
一家はその後ポーモーナ、エルカホンと転居を重ね、
1950年代初めにサンディエゴに移り住んだ。
1955年には再びランカスターに転居した。

15歳の時までにフランクは六つの異なる高校に通った。
12歳でドラムスを始め、17歳でギターに転向する。
自らのバンド活動を始めたのものこの頃である。
 フランクの父親はシチリア島出身の科学者および数学者で、
エドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務した。
一家はエドワーズ空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。
高校を卒業したザッパは、
いくつかの会社勤めをしながら地元サン・バナディーノのクラブに出演し、キャリアを積んだ。

1959年には、彼の英語教師ドン・セルヴェリスが脚本を書いた
西部劇映画「Run Home Slow」の映画音楽を担当し、
19歳にして現代音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた。

1963年には、ポール・バフが自主設立しながら資金難で手放したパル・レコーディング・スタジオを買い取り、
スタジオZと名づけている。
なおこの時期に、ザッパは地元刑事のおとり捜査にひっかかってポルノ・テープを作成し
(実際には女友達と笑いあっているだけの内容だった)、
サン・バナディーノ刑務所で10日間の拘留刑に服している。

・ザ・マザーズ・オブ・インベンション
 1964年、ザッパはレイ・コリンズがリーダーを勤め、既にジミー・カール・ブラックが在籍していたバンド、ザ・ソウル・ジャイアンツに加入する。このバンドが後述するマザーズの前身となった。1965年、バンドはMGMレコードと契約し、翌1966年ザ・マザーズ・オブ・インベンションのデビューアルバム『フリーク・アウト!』がリリースされた。当時としては異例の2枚組、かつ明確なコンセプトを持ったトータル・アルバムであったという点で、同作は当時のロックにおける音楽的水準を遥かに凌駕しており、現在でもロック史に残る名盤の一枚に数えられている。
 初期マザーズは1969年まで活動を継続し、7枚のアルバムを発表した。さらにこれと並行して『ランピー・グレイヴィ』(1968年)『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロを発表するなど、この頃から既にザッパの多作振りは群を抜いていた。『ランピー・グレイヴィ』ではオーケストラと共演し、マザーズ名義の『アンクル・ミート』(1969年)では純室内楽的なアプローチを多用するなど、技法の斬新さも特筆すべきものがある。今でも初期のマザーズの諸作を最高傑作とするファンは非常に多い。『ホット・ラッツ』は、イギリスのヒットチャートで永らく上位を占め、1969年のメロディ・メイカー誌における「Album Of The Year」においてベスト・アルバム賞に輝いている。カンタベリー寄りの非常に上質なジャズ・ロックが展開される本作には、これまた熱心なファンが非常に多い。
 自らの音楽活動に従事するかたわら、ザッパはプロデュース業にも力を注いだ。高校からの友人であるキャプテン・ビーフハート(ドン・ヴァン・ヴリート)のアルバムで、ビーフハートの最高傑作の呼び声も高い『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、彼のプロデュースのもと製作されたものである。

・1970年代
 オリジナルのマザーズ・オブ・インベンションは「いたち野郎」を最後に解散することになるが、1970年代のザッパはますますジャンルの多様化をとげつつも、強烈な独創性に裏打ちされた質の高いアルバムを次々に発表する。同タイトルの映画のサウンドトラック・アルバム『200 Motels』(1971年)、元タートルズのフロー&エディをフィーチャーした20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム・LA』(1972年)などはその一例にすぎない。
 1971年の末、深刻なアクシデントがザッパを襲う。モントルーでのライブ時の火災(後述)の直後、マザーズのロンドンでの公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こったのである。全身に複雑骨折を負い、生命すら危ぶまれたザッパだったが、ツアーに出ることもままならないその静養期間中に彼はスタジオ音楽の可能性に目覚める。その成果は、翌年立て続けに発表されたビッグバンドによる二枚のジャズ・ロックアルバム、『Waka/Jawaka』『The Grand Wazoo』(ともに1972年)として結実した。
 ただし、この静養期間中ザッパは当然バンドを維持することが出来ず、マザーズは再び解散の憂き目に会う。これ以降ザッパは自らのソロ名義でアルバムを発表すると共に、厳格なオーディションにより高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。
 その後もアルバムリリースの勢いは衰えを見せず、ブラックミュージックへの傾倒もうかがえる『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)、『アポストロフィ(’)』(1974年。このアルバムは全米ヒットチャートの10位にまで駆けのぼり、ザッパの代表作として記憶する人も多い)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた名曲「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムが続々とリリースされた。 ジョージ・デューク(キーボード)、ルース・アンダーウッド(パーカッション)、ジャン=リュック・ポンティ(ヴァイオリン)、チェスター・トンプソン(ドラムス)、テリー・ボジオ(ドラムス)、ブルース・ファウラー(トロンボーン)などの錚々たる実力派ミュージシャンに支えられたこの時期のザッパの音楽は、ファンの間でも特に高い支持を得ている。
 78年には、当時のワーナー・ブラザーズとの確執の結果と言う側面があったにせよ、8枚ものアルバムがリリースされた。まさしくザッパの音楽活動における絶頂期であったと言える。

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