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魔暦紀元前14年(1985年)9月21日、FITZBEATより発布された第一大教典(1stアルバム)。地球デビュー盤。
1982年12月末、早稲田大学フォークソング部にてダミアン浜田地獄皇太子殿下(浜田功)を中心に母体となる『は、は、は、は、浜田さんバンド』が結成された。その際、とある二名にボーカルのオファーを行ったが断られ、自身のマネージャー的な役割を務めていた後輩のデーモン閣下(小暮隆)から「私では駄目なんでしょうか?」という申し出を受けた際、「もぉちろんいいよ!」と参加を快諾、デーモン閣下の加入を決定。ベースにはゾッド星島(星島裕樹)が加入。また、プロミュージシャンとしてデビューしていた先輩であるエース清水長官(清水大介)に「清水さん清水さん、ドラム叩きまへんか?」と誘って加入してもらう。
その後、ダミアン浜田作曲の「悪魔組曲」の設定に合わせ、バンド名を聖飢魔IIに改称。その設定の基礎を作り上げる。聖飢魔IIの設定の基礎はデビュー後において整合性を取るために追加された設定や、改変された設定などを除き、ほとんどダミアンによって作られた。バンドの創始者がメジャーデビュー直前にバンドを去るというアクシデントにも関わらず、リーダーの座を託されたデーモン閣下や構成員によってダミアンが設定したバンドとしての聖飢魔IIのコンセプトは長らく保たれた。のちに魔女RYO子嬢がキーボーディストとして参加(第二期まで在籍したが、1ヶ月程度で脱退)。この時期が第一期聖飢魔IIとされる。
1983年9月 - 10月にかけて、第一次悪魔事異動が行われ、エース長官は一度脱退し、二代目ドラマーとしてジード飯島大将が参加、第二期聖飢魔IIとなる(1983年9月 - 1985年3月まで)。
1984年3月、結成1周年を記念して行われる予定だったミサは、ダミアン殿下の突然の帰獄のため急遽『聖飢魔II解散ミサ』となった。しかし解散が決まる前に応募していたコンテストに勝ち進んでいたことを理由に、何とか存続している状態が続くことになった。残されたデーモン閣下・エース長官・ジード大将は、後の構成員Sgt.ルーク篁III世参謀とともに紫馬肥という新たなるバンドの活動を始めていたが、その直後にダミアン殿下が1年の猶予で復帰したことにより、解散は撤回された。その後、ダミアン殿下からデーモン閣下に統帥権の移行・即ちリーダーの交代が漸次行われた。 1984年6月、マツダカレッジサウンドフェスティバル(MCSF)に出演。このとき見に来ていたソニー付けのプロデューサーである(尾崎豊などの担当でもあった)「サテュロス」丸沢和宏が聖飢魔IIを目に留め、CBSソニーのオーディションに誘っている。 エース長官は第二期聖飢魔IIでは初代ドラマーからギタリストに転向して再参加、再脱退。1984年8月、エース長官再脱退後に一時期参加していたジャントニオババヤシの後続のギタリストとして、再々参加する 1984年9月頃、CBSソニーのオーディションで決勝まで駒を進め特別賞を獲得。やがて地球デビューが決まる。
1985年2月18日、王位継承ミサによりダミアン殿下脱退。後継ギタリストとしてガンダーラ・サンゲリア・チグリス・ユーフラテス金子が参加した。ジード飯島もこの時期に脱退し、後続のドラマーとしてジャギ古川(古川徹)が参加。ジャギ古川の在籍した3ヶ月ほどの期間が第3期聖飢魔IIとされる(1985年3月 - 1985年6月まで)。この時期地球デビューに向けたオーディションの結果、1985年6月にジェイル大橋代官とライデン湯沢殿下が加入した。この悪魔事異動により、地球デビュー構成員が固まる。これが第4期聖飢魔IIとされる。
以上のように、デビュー直前まで繰り返された悪魔事異動により、レコーディング時に技術的な問題が生じることになった。そのため、本経典はデーモン閣下以外の、ギター、ベース、ドラムパートは同じ事務所である渡辺健率いるPRISMというバンドが演奏している。プロデューサーも渡辺が務めている。
酒井康(当時BURRN!編集長)より「技術はあるのに邪道に走ってしまった」などの理由で史上最低の0点を頂戴したが、これには本人たち自ら演奏をしていないという点が逆鱗に触れたためという噂も立った(BURRN! 1985年11月号)。しかし売上枚数はデビュー盤にして日本のヘヴィメタル史上初めて10万枚を超える。ちなみに、ジャケットのキャンドルはデーモン閣下の私物である。
プロデュース:渡辺健
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