バイオグラフィー

松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、日本の元プロテニスプレーヤーである。ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げた。現役を退いた後はジュニアの指導にあたるとともに、現役時代の経験と熱血漢的キャラクターを活かしてスポーツキャスター・タレントなど幅広い範囲で活躍中。日本オリンピアンズ協会の理事も務めている。

元々アーティストではないがニコニコ動画やYouTube等のユーザーが彼を題材としたMADを作成したため素材としての登場である。
ちなみに彼が発売した音楽は今のところ無い。

慶應義塾幼稚舎・慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校を経て柳川高等学校中退。

人物

* 父親:松岡功(東宝名誉会長)
* 母親:千波静(宝塚歌劇団の元星組男役)
* 曾祖父:小林一三(雅号・逸翁/阪急電鉄・宝塚歌劇団・東宝をはじめとする阪急阪神東宝グループ創始者)
* 夫人:田口惠美子(元テレビ東京アナウンサー)

略歴

慶應中等部在学中にジュニア選手の登竜門と言われるアメリカの「オレンジボウル選手権」で優勝を果たすなど、早くからテニスの才能を開花させる。その後、慶應高校に進むもテニスの名門・柳川高校に編入。同高を中退後、渡米。1984年にインターハイを制覇し、その後プロに転向。ジャパン・オープンにおいて、当時の世界トップ選手ミロスラフ・メチージュ(1988年ソウル五輪金メダリスト)を撃破し、一躍注目を浴びる。1992年4月の「韓国オープン」で、日本人の男子プロテニス選手として初のATPツアー優勝を達成。1995年のウィンブルドンで、日本人の男子テニス選手として1933年の佐藤次郎以来「62年ぶり」のベスト8入りを果たす。その時の松岡の感動の大きさはコートを駆け回り、最後はコート上で大の字になって空を仰いで表現していたことからも伺える。その準々決勝では1番コートに立ち、第2シードのピート・サンプラスにセットカウント 1-3 (スコア:7-6, 3-6, 4-6, 2-6)で惜敗した(念願だったセンターコートでの試合は1996年2回戦、ミヒャエル・シュティヒ戦で実現する)。オリンピックにもソウル五輪、バルセロナ五輪、アトランタ五輪と3大会連続出場を果たした。

典型的なビッグサーバーで、サービスの調子が良い時は手がつけられないほどの強さを誇った。だがその反面動きが硬く、多くの故障にも悩まされた。4大大会の男子シングルスは1回戦から5セット・マッチで争われるため、試合の終盤に力尽きるケースが多く見られた。その最たる例として、1995年のウィンブルドンで快挙を達成した後、全米オープン1回戦でチェコのペトル・コルダと対戦中、痙攣を起こして身体が動かなくなり、試合途中で失格となったこともある。痙攣はテニス規則では「試合中の故障」とみなされないため、故障の治療時間として取れる3分間の「インジャリー・タイム」“Injury Time”の対象にならない。松岡のこの試合をきっかけに、テニス規則におけるインジャリー・タイムが見直され、その後「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療も認められるようになった。この件は世界的にも大きな反響を呼び、2008年に改訂されたバド・コリンズ著の「テニス百科事典」最新版の678ページで、テニス史に残る出来事として取り上げられた。

1998年春に現役引退。その後、後継者育成のための指導を行うと同時に、スポーツコメンテーターとして日本テレビの『スポーツMAX』(2004年3月まで放送、月曜日)に出演した。長野オリンピックやソルトレイク冬季五輪、またアテネ五輪の解説にも参加。2004年1月~3月に『エースをねらえ!』が実写ドラマになった時は、出演者のテニス監修を担当した。フジテレビの『くいしん坊!万才』のレポーター、2004年4月からはテレビ朝日の『報道ステーション』でもスポーツキャスターを務めている。また、たびたびTBSの『さんまのSUPERからくりTV』にも出演し、同番組内で明石家さんまと対決。現役テニス選手時代と少しも変わらない熱血ぶりを、テレビ解説を含む引退後の仕事でも披露している。近時はその好感度からイメージキャラクターとしての人気が際立って高く、2008年のCM起用ランキングでは木村拓哉と並ぶ男性1位(10社)に輝いた(ニホンモニター調べ)。

エピソード

* 父・功がプロのテニス選手となることに反対だったため、プロ転向後は実家からの経済的援助を受けられなかった時期があった。松岡は世界に転戦するときは常にウェアを自分で洗濯して、ホテル代もないため仲のよい選手が泊まるモーテルに一緒に泊まらせてもらい床に寝ていたという。がこの若き日の苦労が元になったものだと思われる。
* 松岡は山本鈴美香の漫画『エースをねらえ!』に憧れてテニスを始め、海外遠征の間はいつも全18巻を荷物に入れて愛読していた。試合中にもコートに持ち込むこともあり、ウィンブルドンのセンターコートにも実際、それを持ち込んだ。
* 沢口靖子が東宝シンデレラに選ばれた頃、東宝芸能社長である父・功に「会わせてくれ!」と頼んだが、「アホか」の一言で断られたという。また、功が周囲から「沢口靖子を嫁に?」と聞かれると、「東宝の看板女優を二流のテニス選手に渡すわけにはいかん」と言ったという逸話もある。
* 後日、某テニス専門誌の企画で、沢口との対談が実現。対談の場にコミカルなゴジラがプリントされたピンクのトレーナーを着て現れた松岡は沢口のツッコミに対し、「家業(東宝)の宣伝です」と答えた。
* 1995年のウィンブルドンでは、インターバルのみならず、プレー中も「この一球は絶対無二の一球なり」(福田雅之助の「庭球訓」の一節)などと、日本語で自己暗示を掛け続けていた。ベスト8を決めた試合では、歓喜の余りコートに倒れこみ、その様子がBBC等で大々的に放映された。
* 1996年4月28日、松岡は「韓国オープン」で準々決勝敗退に終わった後、直ちに日本へ帰国し、東京・有明コロシアムで行われた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦の日本 vs. ドイツ戦に駆けつけた。伊達公子とシュテフィ・グラフのエース対決で、松岡が日の丸の旗を振り回して会場の大声援を集めた話は今なお語り草になっている。伊達はこの試合でグラフに 7-6, 3-6, 12-10 で勝ち、この日は日本のテニスファンが最も盛り上がった瞬間となった。
* 1998年の引退会見の際、松岡は「これは終わりではなく新しい修造の始まり。」と語り、彼自身が嫌う「限界」や「無理」という言葉は会見でついに最後まで発しなかった。後に中田英寿の引退の際の報道ステーションの席で松岡は「負けても全然悔しいと思わなくなった自分に気が付いてしまった」と引退の理由を語った。
* テニス指導者としての熱血漢ぶりを示す名言もいろいろあり、「本気」/「出し切れ!!」/「君達の目指している所、それは日本じゃない、世界なんだよ!それも世界の頂点だよ!!」/「ナイスショット、ナイスショット、ラスティ!」など多数ある。ただし、テニス指導に熱くなりすぎて、テニスを1日指導するイベントなどで、ふがいないプレーをしている子供を叱りつけ泣かせる場面もある。
* 父・功は東宝の社長になる以前にはデビスカップに出場したこともある名テニスプレーヤーだったが、実業に専念すると同時に完全にテニスから足を洗った。用具やトロフィーなどはすべて処分し、テニスをやっていた痕跡すら残さなかったという。そのため修造は、自らがテニスを始め、将来を嘱望される選手となる頃まで、父がテニス選手であったことを知らなかった。
* 現在は東宝東和株式会社で代表取締役社長を務める兄・宏泰は、慶應義塾大学時代にテニス部主将を務め、全日本大学選手権などに出場。テニス専門誌などにもしばしば登場するほどの選手だった。当時既にプロになっていた修造の知名度も高く、「セレブなテニス兄弟」としてメディア的には格好のネタになりそうなものだったが、なぜか宏泰が「松岡修造の兄」として紹介されたことはほとんどなかった。これは宏泰が、父・功同様、大学卒業後は実業に専念することを決意しており、将来はプロとしてテニス界で羽ばたいていくであろう修造とは距離を置いた立場を貫くために、メディアに対してなんらかの申し入れをしていたからだと推察されている。
* 高校入学時は165cmであり、柳川高等学校では、成長が止まると言われていたウサギ跳びを彼だけやらず、結局卒業時は182cmになっていて、「柳川高校唯一身長が伸びた男」とも言われていた。
* 柳川高校1年生当時のこと、上級生に「テニス部員は特別な存在だから、他部の上級生に対して遠慮しなくていい。例えば、食堂で…」と教え込まれた彼は、注文待ちで並んでいた3年生(柔道部員)の前に割り込んだが案の定激昂されたので、言われたとおりに自分の立場を力説したが、全く通用せず殴り飛ばされた。
* 上述の通り若手育成にも力を入れており、JTA強化本部及びジュニア育成本部との共催で、毎年10数名の有望トップジュニアを対象に「修造チャレンジ」を開催している。歴代の合宿生の中には当時12歳だった錦織圭もいた。

この wiki を編集

似ているアーティスト

API Calls

Spotify 経由で Scrobble しているお客様へ

Spotify アカウントを Last.fm アカウントに接続すると Spotify で聞く音楽がすべてScrobble されます。使用するアプリやデバイス、プラットフォームの種類を気にする必要はもうありません。

Spotify に接続

却下